身近に自分よりも素晴らしく、幸せいっぱいの人がいると、なんとなく羨ましく、妬ましいような気持ちにすらなることがありますね。
嫉妬心のあまり、「あんな人不幸になればいい。」と思ってしまうことがあるのも事実です。
しかし、「人の不幸を願うと自分に返ってくる」とも言いますね。
本当のところはどうなのでしょうか?
こうしたことが実際にあるのか、人の不幸を喜ぶ人の末路はどうなるのか、考えてみましょう。
人の不幸を願うと自分に返ってくるって実際にあるの?
かなり前のことですが、実力のある将棋の名人がいました。
どの棋戦でも他を寄せ付けず、この人は長く名人の座を守ると誰もが思っていました。
ところが、この名人と同門の弟弟子である若い棋士が「あの名人の実力は大したことはない、私と同程度で、単に運がいいだけですよ。」というようなことを言ったのです。
周りの人は「そのうち彼の名人位も無くなるだろう。」という意味だと受け取ったそうです。
この話を伝え聞いた件の名人は、「生意気な弟弟子だ、けしからん。」とは言いませんでした。ただ、「そういうことを言うと、自分に返ってくるのですよ。ふっふっふ。」と笑ったそうです。
その後の話は、名人は長く名人の座を守り、名実ともに立派な名人だと誰もが認めました。
名人を批判した棋士は、他の棋士にもむき出しの闘志を燃やして、対局に向かう日々でした。しかし、相当頑張ったにもかかわらず、結局名人にはなれずに引退しました。
人の不幸を喜ぶ人の末路とは?
人の不幸を喜ぶ、あるいはそれを密かに願っている人は実際にいますね。
しかし、人の不幸を喜ぶというのは、自分の方が優位に立ちたい、より幸せでありたいという気持ちの表れです。
他人が自分よりも不幸ならば、自分が必然的に優位に立ち、より幸せではないかと思えるわけです。
棋士の例ならば、「現名人が破れて自分が名人になれるなら、幸せだ。」という気持ちが読み取れます。
自分の幸福を願うあまりに人の不幸を願ったり、喜んだりするとどうなるでしょうか。
周りの人はそれに気付いて、その人を応援したり、励ましたり、協力しなくなるでしょう。
当然その人がピンチに陥った時にも助けてくれる人はなくなるはずです。
結果、人の不幸を願う人は幸いを得られない、つまり自分のしたことが、自分に返ってくることになることは十分にあり得るのです。
先の若い棋士も、同門に名人がいるという良い環境にいることを感謝し、名人に習い、教えを受けることもできたはずです。
その結果、本当に名人になれたかもしれないのに、逆に名人を悪く言ったことによって、そのチャンスを失ったとも考えられます。
自分に酷いことをした人を不幸にしたいと思う時は?
自分に良くしてくれる人に対しても、うらやましいと思う気持ちがはたらかないとは限りません。
まして、自分に酷いことをする人が幸せそうに見えるとき、その人が不幸になればいいのにと思うことがあっても不思議ではありません。
ただ、よく考えてみると、その人が不幸になったら、自分の方がましではないかと思えるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。
あの将棋名人のように「そういうことはその人に返ってくるのですよ。」と言える余裕を持ちたいものです。
ある福祉施設の指導員だった女性は、こんなことを言っていました。
「大勢の人と一緒に仕事をしていると嫌なこともたくさんあるけれど、相手を変えるなんてできないのだから、自分が変わらなくちゃダメよね。」
これは本当ですね。
嫌だなと思う人がいるとして、
「ああ、いやだ、いやだ。何とか仕返しをしたい。あの人が不幸になればいいのに。」
と相手の不幸を願っても、実際にはすぐにそうならないことの方が多いです。
また、それによって、自分が満足することもないのです。
だとすれば、発想の転換をして、自分のできることをして、幸いを得ることの方がより現実的なのです。
自分が幸せで、満足のいく状態ならば、他人をうらやんだり、仕返しをしようと考えたりする気持ちにはならないのではないでしょうか。
まとめ
人の不幸を願うと自分に返ってくることはあります。
そして、自分よりも幸せそうな人をうらやむあまり、その人の不幸を願うのは間違いです。
むしろ自分に酷いことをした人を妬むより、自分が変わることによって平和な生活を送ることを考えたいですね。
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